2012年6月 イスタンブルで碑文を歩く
イスタンブルは長い歴史をもっており、街を歩けば古い物に出くわすのに事欠きません。とりわけ旧市街に足を踏み込めば、モスクをはじめオスマン朝時代の建物が数多く残っているのはもちろん、古代ローマの石柱までがごろんと野ざらしになっているのに気がつくでしょう。
こうした建物や遺物を見るとき、文字による記録を相手にする歴史研究者がどうしても気になってしまうのが、碑文です。イスタンブルではうち捨てられて、一体それがいつの時代の何なのか、今となってはわからないような古い遺構もそこかしこに見られます。しかし碑文があれば、文字を解読することによって、それが何年に、誰によって、何のために作られたのかをはっきり知ることができるのです。
イスタンブルを歩いていて一番多く目にする碑文は、水道施設に掲げられたものでしょう。写真はトルコ語でチェシュメ(「泉」の意)と呼ばれる公共水道の取水口です。写真からわかりますように、この施設の上部には、修復されて金箔の輝きも新しく、8行にわたってアラビア文字の優雅な書体で碑文が記されています。こうした碑文には一定のパターンがあり、私財を寄進して施設を作らせた人物の善行を讃え、施設の利用を促す詩が書かれ、末尾には制作年代が添えてある場合も多く見られます。この例からは、チェシュメがオスマン朝の皇帝の学問の師であったフェイズッラー・エフェンディという人物によって、ヒジュラ暦1112年(西暦1700/01年)に作られたことがわかります。
権勢を振るい多くの人から憎まれたフェイズッラー・エフェンディは1703年に起こった反乱で殺害されましたが、彼のチェシュメは死後も人びとに飲料水を供給し続け、水が停まって使われなくなった今日でも、碑文のおかげで事跡を知ることができるのです。
ちなみに最後の一行にはこう記されています。
来たれ、来たれ、飲め、この光の泉から、澄み切った甘い水を!
(トルコ語の語順は日本語とほぼ同じですが、これは韻文なので、韻律の都合上倒置法が使われています。)
ところで碑文の最後の行には、その碑文の年代がしのびこませてあります。アラビア文字は全部で28文字ありますが、各文字に数字が割り当てられていて(1から9まで、10の倍数の10から90まで、100の倍数の100から900までと1000で、ちょうど合計28個になります)、使用する各文字の数字を合計するとその年代になるように詩作するのです。上記の例では
20+30+20+30+1+10+3+2+6+3+300+40+5+60+1+200+50+6+200+4+50+1+2+7+30+1+30
=1112
となり、すぐ下に記された1112というアラビア数字と一致します。韻文の約束をふまえつつ意味のある句を作って、なおかつ制作年代まで読み込むのですから、碑文はオスマン朝の詩人たちの腕の見せ所でした。意外なことに、オスマン朝では計算が得意なことが、詩人として大成する必須条件だったです。
次の写真はたまたま通りかかったモスクの中庭で目にした墓石です。オスマン朝の墓石は、埋葬されている人物が生前かぶっていたのと同じかぶり物をかたどっていますから、一目で被葬者の地位や身分がわかります。この例ではカッラーヴィーという、烏賊の胴体のような形をした、ヴェズィール(もともと「宰相」の意味だが後期オスマン朝では単なる位階)に特有の大きな帽子を載せていますから、有力政治家の墓石であることは碑文を読まなくても明らかです。
さて碑文を読むと、埋葬されているのは不慮の死を遂げたオスマン・パシャという人物の首級であることがわかります。さらにアラビア数字の1189年(西暦1775/76年)という年代を手がかりに年代記をひもとけば、これはイスラーム学院の教授から政治家に異例の転身を遂げ、1768-74年のロシアとの戦争で戦功を立てたミュデッリス・オスマン・パシャだということが判明します。実はオスマン・パシャは戦功に免じて戦中は不正を見逃してもらっていたのですが、オスマン朝が敗戦した翌1775年に、民衆への圧制を理由に勅命によって任地であったギリシアのエウボイアで処刑され、切られた首はイスタンブルのトプカプ宮殿の門の前でさらされたのでした。
碑文の最後の1行にはこう書かれています。
現世を旅立った、オスマン・パシャが
ところがこれを計算してみますと、
70+7+40+4+10+1+200+300+5+6+4+1+10+30+4+10+70+500+40+1+50+2+1+300+1
=1667
となってしまい、ヒジュラ暦1667年は西暦2238/39年ですから、このままでは墓が226年後の未来に作られたことになってしまいます。
正しく計算するヒントはその一行前にありました。
その死には、宝石をちりばめた文字によってできた、年代が
「宝石をちりばめた文字」とは何でしょうか。アラビア文字は、線とまわりに打った点でそれぞれの文字を区別します。「宝石をちりばめた文字」とは、点の打ってある文字のことなのです。この一行は、死亡年代の計算には点の打ってある文字だけ使いました、という意味なのです。そこで最後の行で、点の打ってある文字を探すと9個ありましたので、それらを合計してみると、
7+10+300+10+10+500+50+2+300
=1189
となり、今度は無事正しい結果が得られました。
何とも複雑な話ですが、これは年代を記憶しておくための一つの方法だったのです。われわれも歴史を勉強するときには、語呂合わせで年代を暗記するではありませんか。
このようにイスタンブルを歩けば必ず碑文との出会いがあり、寄進者や被葬者、技巧をふるった詩人たちへと思いをはせていると、興趣の尽きることはありません。
(髙松 洋一)