2011年7月 天国に一番近い島に流された「アラブ人」たち
1966年に出版されて一世を風靡し,原田知世主演で映画化もされた「天国に一番近い島」とは,周知の通りニュー・カレドニアである。少々長い名前なので地元の人々に倣って以下NCと略記するが,フランスの海外特別共同体であることから正式にはヌーヴェル・カレドニーとなる。
首都ヌメアから車で2時間ほどの距離にある,2番目に大きな町ブーライユ(と言ってもヌメアが唯一の大都市なので,実際には小さな町である)の市長は「アラブ」系のジャン=ピエール・タイエブ・アイファ氏である。彼はNCに流刑囚として流されたアルジェリアのカビール(ベルベル人のグループのひとつ)を父に持つ2世で,当市の市長を2期約30年間務めている。彼と,ブーライユの「アラブ人」協会会長のベルナール・サーレム氏に市庁舎で色々と話を伺った。
フランスは1863年9月に,NCを懲役囚のための流刑地と定め(大英帝国にとってのオーストラリアと同様である),早速翌年5月にイフジェニー号で248名の受刑者を送り込んだ。最初に「アラブ人」がNCに送られたのも1864年であるとされているが,1871年にアルジェリアで起こったモクラーニによる対フランス蜂起で多くのカビールが捕虜となり,それを機にその後毎年数千人単位でカビールたちがNCに流されることとなる。しかし彼らの多くは,船上で唯一の栄養食として出された豚の脂身を忌避し,航海中,或いは到着後すぐに亡くなったという記録が残っている。「アラブ人」たちのNCへの流刑は1896年まで続いた。
ところで,ここまで「アラブ人」と括弧付きで記してきたのは,NCに流されたのが,厳密に言えばアラブ人とは異なるベルベル人だからであるが,アイファ氏によれば,当地ではアラブ人という呼称に対して,自らのアイデンティティを表すものとしての誇りと敬意を持っているということである。何故なら,彼らの多くは,アルジェリア建国の父と言われ,フランス軍を度々悩ましたアブドゥルカーディルのスマーラ(族長と共に移動する周囲のテント集落を表すアラビア語のzamaalaに由来)の末裔だからである。
彼らがフランスでの収監を経て最終的に送り込まれたのは,ブーライユ市のはずれにあるネサディウという谷であるが,そこは土地の過酷さから「不幸の谷」と呼ばれていた。流刑者は一定期間移動を禁止され,また関係する公文書は100年間非公開とされた。流刑者は男性だけだったので,彼らはヨーロッパ系,或いはメラネシア系の女性と結婚して子を儲け,従ってアラビア語はほどなく忘れ去られることになる。ネサディウ及びその周辺に住むアラブ系住民は,現在は600人程度であると言われ,農業や牧場経営に携わっている。広大な牧場を所有するポール・アブドゥルカーディル氏の息子さんは,谷を走る道路脇に雑貨屋を構えているが,ベトナム女性との間に5世の男の子が生まれている。
ブーライユから10キロほど離れた川沿いにも,カビールの子孫が住む農家が点在しており,そのうちの一軒を訪ねた。車数台に乗った大勢の人間が,道なき道をやってきて家の前に乗り付けたので,ひとりの老人が一体何事かと出てきた。86歳になるアフマド・ベン・アムーリーさんは,微かに覚えのあるアラビア語を操る東洋人(成蹊大学の堀内正樹氏)の登場に大喜びし(多分数十年ぶりにアラビア語を話したのだろう),恐らくは大事にとっておいた濃縮ジュースを全員に振る舞ってくれた。ご老体は自分を2世と称していたが,不幸の谷よりも更に過酷であると思われるその土地に何年住んでいたのだろうか。
ネサディウ谷では,1990年代にサウディ・アラビアの援助で,モスクや墓の修復,アラビア語教育などが行われてきた。但し,フランスでは海外の援助で「モスク」等の明示的な名称を持つ宗教施設を建てることは法律で禁じられているため,当地でのモスクの正式名称は「イスラーム・センター」である。また,アラビア語はほぼ忘れ去られているためにクルアーンはフランス語訳で朗誦されている。
アイファ氏が,《歴史》の被害者としての自分たちが体現してきた生き様を「宿命」と呼ぶ,必ずしも悲観主義的だけではない諦観をひしひしと感じた長い一日の終わりに,雄大な河口を見下ろす断崖の上で,牧場主のアブドゥルカーディル氏が別れ際に固い握手をしながら言ってくれた。
「今度来るときには前もって連絡してくれよな。クスクスとか用意しておくから」。
NCを訪れる一ヶ月ほど前に,パリの蚤の市でエティエンヌ・ディネの絵35枚の複製画(残念ながら白黒で小さなサイズではあるが)をゴミ箱同然の棚から見つけ,値切り倒して入手した。恐らく何かの画集に入っていたものをバラしたものだと思われるが,ディネが描き続けた,正に19世紀末から20世紀始めのアルジェリアの様々な風物画である。これをNCへのお土産に持って行くべきかどうか迷ったが,結局はいつものように無難な和風小物で済ませてしまった。次回(もしあれば)これを持って行くべきかどうか。
(小田 淳一)